明治の文豪・島崎藤村

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島崎藤村(小諸市教育委員会 所蔵:無断転載不可
)


 島崎藤村は、明治、大正、昭和の三代にわたって息の長い活動をつづけた日本近代文学を代表する作家です。

 “まだあげそめし前髪の”と歌い出される「初恋」が収められている『若菜集』の詩人として登場し、“小諸なる古城のほとり/雲白く遊子悲しむ”の「千曲川旅情の歌」などが収められている第四詩集『落梅集』を最後に、詩作から決別し小説家へと転身していきました。藤村最初の長編小説『破戒』は日本自然主義文学の記念碑的作品として高い評価を得て、日露戦争後の文壇をリードしました。以後、『春』、『家』、『新生』、『夜明け前』に至るまで、自らと周辺の人々をモデルとしてリアルな小説を描き続けました。その作風は自然主義と呼ばれることもあります。


藤村の生涯

小諸時代以前

 明治5年2月17日(新暦3月25日)、信州・木曾の中仙道馬籠宿(現・岐阜県中津川市馬籠)の本陣・問屋・庄屋を兼ねた旧家に7人兄弟の四男として生まれました。本名は春樹といいます。父正樹は島崎家の17代当主であり平田門下の国学者でもありました。

 明治14年9月、数えで10歳の春樹は三兄友弥と共に東京で教育を受けるため、長兄秀雄につき添われて上京しました。転入先の泰明小学校は元数寄屋町一丁目にあるモダンな煉瓦造りで、後に北村透谷も同時期在学していたことを知りました。

 明治20年9月、開校されたばかりの芝白金の明治学院普通学部本科に入学しました。学院教師の4分の3強が英米の外国人でした。毎週、英文朗読や英語演説などの文学会があり、プロテスタンティズムに支えられた自由かつ清純な男女交際が学校によって保障されているという世界であり、当時の洋風教育の先端の一つでした。

 明治21年6月17日、高輪台町教会牧師であり、かつて共立学校(後の開成中学)で英語を教わった恩師木村熊二により洗礼を受けました。

 明治24年6月、明治学院を卒業し、木村熊二の紹介で巖本善治の『女学雑誌』の編集の仕事に着くこととなり、同誌に翻訳などを発表し始めました。
 明治25年9月、春樹は、明治女学校高等科で英語を教えることになりました。週9時間、月給は10円であったといいます。教え子の中の岩手花巻出身の佐藤輔子という生徒に心惹かれ、たちまちこの女性のとりこになってしまいました。輔子には遠縁の鹿討豊太郎という札幌農学校生の許嫁がいました。春樹はこの教え子に対する恋に悩み、遂に明治26年1月下旬、明治女学校を退職し、教会も脱退して関西漂白の旅に出かけました。一年近くの漂白の旅の後(11月下旬)、浜町の吉村忠道の家に詫びを入れて戻りました。

 藤村(藤村の号は明治27年2月より用いている)が関西漂白の旅に出た時、彼の懐には創刊されたばかりの『文学界』がありました。星野天知を中心に平田禿木を編集に加え、同人には北村透谷、島崎藤村、戸川秋骨らがおり、藤村は漂白の旅の間も、同誌に「茶のけむり」、「朱門のうれひ」など次々と原稿を送りました。

 明治27年4月、再び明治女学校の教師となりましたが、この年は藤村にとって実生活上大きな事件が相次いだ年でした。4月に佐藤輔子が明治女学校を卒業して許嫁のもとへ嫁いでいき、5月には、長兄秀雄が人に騙されて不正に加担したことになり、鍜治橋の未決監に入れられてしまいました。6月には、藤村の人生の上で大きな影響を受けていた北村透谷が縊死してしまい強い衝撃を受けました。明治28年8月には、許嫁と結婚して札幌に移り住んだ輔子が急逝したことを知り、これにも衝撃を受けました。また9月末には馬籠の旧宅が大火のために半焼したというようなことも伝わってきました。意気阻喪するばかりでした。12月、藤村は明治女学校を再度退職しました。翌年の2月5日には、明治女学校が火事で焼失しました。

 明治29年9月、明治女学校の同僚だった小此木忠七郎の世話で、仙台の東北学院に英語と作文の教師として赴任しました。東北仙台の地において、これまでのすべての心労を癒し、気分を落ち着かせることができました。そして、心が解放されると同時に次々と唇から歌があふれ出しました。


  • 心の宿の宮城野よ
  • 乱れて熱き吾身には
  • 日陰も薄く草枯れて
  • 荒れたる野こそうれしけれ

  • ひとりさみしき吾耳は
  • 吹く北風を琴と聴き
  • 悲しみ深き吾目には
  • 色彩なき石も花と見き

 明治30年6月末、藤村は東北学院を辞して帰京。わずか1年の勤務でしたが、仙台で生まれた詩を中心に、全52編からなる処女詩集『若菜集』を明治30年8月春陽堂より刊行しました。この詩集には、今日までも歌い継がれている「初恋」や「高楼」(「惜別の歌」として歌われている)などが収められています。



小諸時代(明治32年~明治38年)

「もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか。」 これはわたしが都会の空気の中から抜け出して、あの山国へ行った時の心であった。 (『千曲川のスケッチ』 序より)


 明治32年4月、恩師の木村熊二が明治26年に小諸に開塾した小諸義塾に招かれ、国語と英語の教師として教壇に立つことになりました。教師として赴任する以前にも、藤村は度々、恩師である小諸の木村熊二のもとを訪れていました。この年に明治女学校の校長を務めた巌本善治の紹介で函館の網問屋の娘・冬子と結婚し、小諸馬場裏の士族の屋敷跡に新居を構え暮らし始めました。冬子との間には3人の娘が生まれています。藤村にとって穏やかな結婚生活が訪れました。

 明治33年4月、文芸雑誌『明星』創刊号で「旅情(小諸なる古城のほとり)」を発表します。同年同月、『文界』で「一小吟(千曲川旅情のうた)」を発表します。両詩は当初、単独の詩として別々の雑誌で発表され、明治34年8月に刊行された『落梅集』にも別詩として収められていますが、昭和2年4月『藤村詩抄』において「千曲川旅情のうた 一、二」と合わせたものになりました。

 両詩で詠われている“古城”は小諸城址・懐古園のことであり、現在、園内の一画に詩碑が建立されています。



 藤村は小諸在住中に、「物を見る稽古」のために、『千曲川のスケッチ』(大正1年12月刊行)の草稿を書き記し始めます。『千曲川のスケッチ』は、小諸の人々の暮らしや千曲川周辺の自然をつぶさに観察した様子を新鮮な感覚で描写しています。小諸の風土や生活に触れ、観察と思索を深めていった藤村は、詩人から小説家へと転じていくこととなり、「藁草履」「爺」「老嬢」「椰子の葉陰」など多くの短編小説を発表します。そして長編小説『破戒』の執筆に執りかかります。


小諸時代以降(明治38年~)

 明治38年3月、小諸義塾を退職。書きかけの原稿をもって上京し、翌年に『破戒』を自費出版します。社会的なテーマを追求したとされる『破戒』はすぐに売り切れてしまうほどの人気作となり、自然主義小説として絶賛されます。『破戒』の成功は、自然主義派の作家としての地位を確立させることになりました。その後、自伝的小説となる『春』『家』を次々と発表しました。

 しかし、上京してから1年ほどの間に、小諸で生まれた3人の娘が麻疹などで次々と亡くなり、また妻・冬子は明治43年8月6日、四女出産後に亡くなるという不幸に見舞われます。
 その後、妻を失った藤村の身の回りの世話をしていた姪のこま子と事実上の愛人関係となり、こま子は藤村の子を身ごもります。こま子との関係に苦しんだ藤村は彼女との関係を断ち切るために、また文学上の新境地を開くために大正2(1913)年、フランスに渡航し、画家の有島生馬の紹介で下宿生活を送りました。
 大正5年に帰国すると、大正7(1918)年にこま子との関係を告白した長編小説『新生』を発表し、その関係を清算します。

 昭和3年に加藤静子と再婚しました。大正2年頃から国学者だった父・島崎正樹をモデルにした『夜明け前』の執筆の準備に取り掛かり、昭和4年から昭和10年に『中央公論』にて連載されました。

 昭和10年11月、日本ペンクラブが結成され、藤村は初代会長に就任しました。

 昭和16年に神奈川県大磯町に移住し、『夜明け前』の続編である『東方の門』に着手しますが、昭和18年に脳溢血のため大磯の自宅で亡くなりました。享年72歳でした。


~ 藤村ゆかりの地をめぐる ~