牧野康哉(やすとし)「小諸城主(藩主)牧野家9代」

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8代康命は病弱で早世(24才)したため、天保三年(1832年)15才の若さで9代目の城主となりました。
康哉は領内村々をくまなく廻村し、「天保の大飢饉」で疲弊した民情をつぶさに視察、16才で領民の窮乏・藩の危急を目の当たりにし藩政の立て直しに着手しました。
人間の生命の尊さを説いた「育児法」、80才以上の者に終身口分米を施す「養老法」などを制定。
また、当時不治の病と恐れられた天然痘を防止するため、いち早く「牛痘種痘法(ぎゅうとうしゅとうほう)」を実施。
天然痘の流行を未然に防ぐなどの仁政を施し、幕末の名君とうたわれました。
又、幕府若年寄も務め、大老井伊直弼の元で幕政にも参与し、直弼の懐刀とも言われました。

~種痘ウラ話~

天然痘で苦しむ領民に「種痘」を実施するため、侍医に牛痘法を学ばせ普及させようとしましたが、領民からの抵抗が大きく、自身の息女二人に牛痘を施し、家臣の家族にも及ぼすことで領民の理解を得、普及させました。
市町脇本陣(現 粂屋)が種痘宿に定まり、小児が順番に受けたといいます。
近代的医療の先駆けとして行った種痘法は康哉の偉業といえます。
全ての村々の安定が、小諸藩の財政安定につながるという治政の根本を貫く政策で推し進めたことは名君と讃えられる所以です。