仙石秀久(小諸藩初代藩主)

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14歳で織田信長に仕え、羽柴(後の豊臣秀吉)隊の馬廻衆(うままわりしゅう)として各地で転戦。
最古参の家臣として秀吉に寵愛されました。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉が天下統一を果たすと、北条氏征伐のための小田原城攻めの軍功によって再起実現(※1)した秀久は5万石で小諸に封ぜられます。
秀久は小諸藩初代藩主となると城の大改修に取り掛かり、24年間の治世で大手門や黒門、二の丸を増築して、今日遺構の残る天下に類を見ない近世城郭としての堅固な城を完成させました。
城の改築と同時に領地の開拓や城下、街道、宿場の整備にも力を注ぎました。
秀久は城下の視察に向かう際、健速神社旧地の祇園の宮をよく参拝しており、日頃通ったその坂は今でも「権兵衛坂(ごんべえざか)」(権兵衛=仙石秀久のこと)と呼ばれています。

~戦国ウラ話~

仙石氏の定紋「永楽銭」は織田信長より下賜されたものと伝わります。
豊臣秀吉のもとで急速に立身していた秀久は天正十四年(1586年)、秀吉の命により九州攻めの先陣役として派遣され、軍監に任命されました。
しかし豊後国にて防備を固めよという秀吉の命を遵守せず、独断で会戦に臨み敗北した上、敗走する軍を取りまとめる軍監役の責務を果たさずに諸侯を差し置いて小倉城に入城し、さらに残存兵を置いて家臣20名と讃岐国まで退却してしまったことも不名誉とされ秀吉の勘気を被りました。
これにより秀吉は仙石氏に与えた讃岐国を召し上げ(改易)、秀久に対しては高野山へ追放の処分を下し蟄居となります。
(※1)順調だった出世街道を外れるも、小田原城早川口攻めでは徳川家康のとりなしにより陣借(じんが)り(正規の部隊に属していない浪人武将などが、縁故のある人物に助太刀し参戦すること)として重要な虎口(こぐち)(城郭や陣営などの最も要所にある出入口)のひとつを占拠するという抜群の武功をあげ起死回生を果たし小諸へ入封となります。
秀久は粕尾(白い房の付いた)の金塗蒙古型兜、短冊の付いた小さな鈴が無数に縫い付けられた陣羽織をまとい、【無】の馬印を掲げて馳せ参じたと伝わります。
まさにゼロ(無)からの再出発の決意で挑んだのでしょう。
なお秀久は京都伏見城中において大盗賊として有名な石川五右衛門を捕らえたとの伝説でも知られています。