徳川秀忠

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徳川家康が石田三成と激突した天下分け目の関ヶ原の戦いに着陣する中、家康の子でのちに二代目将軍となる徳川秀忠は慶長五年(1600年)、上田城にいる真田氏征伐(第二次上田合戦)のため徳川本隊として数多の重臣を率い3万8千の大軍勢で宇都宮から小諸に入りました。
当時21歳で初陣であった秀忠は大手門(城の玄関口)から入城し三の丸入口の三の門脇の石に腰かけたとされ、その石が現存する「徳川秀忠憩石(いこいいし)」と伝わります。
腰かけ石ではなく憩石と名付けられているのは長旅の疲れをここで取り去り、二の丸に入場する前にしばし憩の時を持ったからでしょうか。

~戦国ウラ話~

小諸城二の丸に布陣した秀忠でしたが、真田氏攻略に時間を要したことにより、父・家康の待つ関ヶ原の戦い本戦に遅参してしまいます。
家康に叱責される秀忠の弁明に家臣であった仙石秀久が身を挺して奔走したことから、秀忠は将軍になると秀久を重用するようになります。
長引く第二次上田合戦の和睦を海應院(現 荒町)が執り成しました。
秀忠はその礼として小諸在陣の折に使用したと伝わる「下馬札」「高麗茶碗」「葵紋散軍配団扇」を海應院に下賜しました。