二の丸跡

慶長5年(1600年)天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」に向かうべく、東軍の軍勢3万8千を率いて徳川秀忠が信州に入ると小諸城主・仙石秀久は、秀忠を小諸城の二の丸に本陣を構え迎えました。二の丸は、北西に西軍の真田昌幸・幸村の居城・上田城方面を見渡す場所です。
秀忠は、上田城開城を迫りましたが、のらりくらりと返事を先延ばしする真田昌幸に激怒し、上田城攻略を命じます。ところが上田城に籠城する真田軍わずか3千5百の兵力に翻弄され決着がつきませんでした。そこで小諸城内にあった海応院の住職が仲立ちし真田と和睦します。
この上田合戦で小諸に10日間足止めされ、秀忠軍は関ヶ原の戦いに遅れてしまったのは有名な逸話です。
礎石です、ここが二の門跡。ここが守りの要のひとつです。上にまたがっていた櫓門(やぐらもん)。通行できるわけです。こっちに行ったりあっちに行ったり敵を撃退できる。小諸城のこの部分の設計はまことに見事です。
今は三の門を入って、この門(二の門)に来ています。注目していただきたいのは二の門の、このスペース。ここはよく見ていただくと三つのくるわに囲まれている。向かって右側が二の丸、向かって左側が北の丸と南の丸。赤いマークで塗ってあるのが、枡形(ますがた)空間になっている。色んなくるわから矢が飛んでくる構造です。ここは非常に小諸城の特徴です。
一見するとすごく古いタイプのお城のかたちなんですけれど、実はこの石垣をうまく使い、櫓門で曲輪と曲輪をつないでいく、という事をしながら、きんせい的な形にしっかりつくりかえている。ここはお城ファンが泣くいい所ですね、うまい所ですよ、これは。
ちゅうせい的?な独立した曲輪をこう櫓門でつなげていって、じょれつ?をつけて統一した、表から奥の方へという、上手いですね、この組み立て方が。
結局、ここにさっき立っていた礎石の上に門があって、櫓門である。絵図でわかる。上と下の二の丸と南の丸が上で立体構成でつながっている。結局どういうことかと言うと、二の丸がお城の防御の正面、城下町がある方面にどーんと飛び出しているので、頑張って守ってね、と。頑張って守ってくれているんですけれど、この門が突破されてしまった時、ここの階段で行き来しているだけだと、ごめんね、もう助けられないよ、と孤立してしまう。上がつながっていれば、安心していつでも逃げ込める。ちゃんと退避するルートが確保出来ている。戦う人にも優しいお城です。逃げ道がある。
二の丸に行きましょう、ここは大事な所ですものね。二の丸に着きました。広くて良いところ。二の丸は何があった所なんですか?
二の丸にも御殿があしまして、氷餅の制作注文・・・を受けついでいた・・・
隠居された藩主のもとすく・・・がここにとうじ?に来た。間取り図が残っていて、御殿の建築様式を・・・、かなり格式のある空間だった。奥に行ってみましょう。今は広場ですが、大きな建物が建っていたんですね。
二の丸跡。良い景色ですね。一番端が浅間山、その隣が黒斑(山)、高峰と浅間連峰がずっとつながって見える。こちらの方向からの真田の領地、小県の方が見渡せる。浅間方面の見え方が素晴らしいですね。
徳川秀忠が関ケ原の時に、大軍を率いてやって来て、上田城の真田と戦った時の本拠地みたいに言われている。実際に、ここを拠点にして上田攻めに秀忠は行っている。ここが徳川軍の拠点になるわけですか。北国街道をまっすぐ。真田は、このすぐ向こう側の深沢川(ふかさわがわ)があるが、そこに忍びたちを伏せて、徳川軍の接近をきゅうしゅうしようとしている。発見されて彼らは上田方面に逃げる。この向こうにねつという所があるが、ねつの城にいた真田方の秀忠群が追い払って、そのまま上田になだれ込んで行く。あれはわざと見つかるように動いている節がある。上田におびき寄せる。それで真田昌幸(まさゆき)に反撃される。人生上手くいっていると思うときこそが危ないわけですね。
秀忠はこれが初陣だった。しかも家康からほんたいを預かっているので、、ところがしてやられてしまう。秀忠、面目まるつぶれ、という感じですよね。
それで、関ケ原に遅刻したなんてのちに言われますが、それはそういう風に考えて良いのですか?それは誤解です。実際、秀忠は家康の命令で、真田・・・に来ている、ところが家康からすぐに真田・・・を中止して、・・・に合流しろという指令が来る。なので、物理的に間に合わない。運が悪くて家康が派遣したつかいが、川の増水で中々渡れることができなくてこちらに到着するのが遅れたという記録もあるので、ただでさえ報告が遅れているのに、到底みの・・・には間に合わない。無理筋だった。上田・・・の時に、秀忠はこの小諸城の二の丸に居たと言われています。これは秀忠がイライラしながら見た景色と同じという事、上田領?を見ながら悔しがっていた。
二の丸という所はもう一つ伝承があって、武田勝頼のいとこ、信玄の弟の信繁(のぶしげ)の息子、武田典厩(てんきゅう)信豊(のぶとよ)が討ち死にした、最期を迎えたところと伝わると言われている所でもある。しんぷう・・・を焼いて勝頼がいわ・・・に落ち延びる時に、勝頼から信濃をゆずられて、こうぞく・・・の軍勢を率いて、織田軍が甲斐に入ったら、後ろから攻めてくれと、勝頼は正面からやるから、という約束でここに来るが、下曾根浄喜に裏切られて、ここで無念の最期をとげた。この場所は歴史の色々な方がご苦労がしのばれますね。この景色を眺めていたわけですね。
(「千田先生と行く!日本最強で不滅の城LIVE」第4回長野県小諸市 小諸城 より)