小諸城から懐古園へ
江戸幕末~明治・大正・昭和~平成・令和

1.江戸幕末までの小諸城

(1)幕末の小諸城主となった牧野氏
 元禄15年(1702)牧野康重は、越後国与板藩より5千石加増の上、1万5千石で小諸城・城主となり、幕末までこの牧野家が10代にわたり藩主を務める事になる。牧野康重は、5代将軍・徳川綱吉の従弟にあたることもあり格別に引き立てられ、1万5千石の小藩ながら実高は3万石の領地であった小諸藩への国替え、より格式の高い城持ち大名として小諸城に栄転となったのである。また、牧野家はその後、熱心に新田開発に取り組み、藩領の実高は幕末には3万9千石となっていった。
(2)幕末の小諸藩
 文久3年(1863年)に最後の藩主となった牧野康済のとき幕末を迎える。明治2年(1869)版籍奉還、さらに明治4年(1871)廃藩置県により小諸藩は小諸県となると、牧野康済は小諸県知事に任じられた。また、廃藩置県に際して藩財政の精算が行われたところ、信濃国内で黒字であったのは、唯一、小諸藩だけだった。その後、さらに全国の府県が改廃され、小諸県は長野県に統合、康済は免官となる。そして、藩主家である牧野家は、華族(子爵)に列することになった。

2.小諸城から懐古園へ

(1)小諸城の土地建物払い下げ
 明治5年(1872)明治新政府により、小諸城の土地建物について払い下げ(競売)が実施される。御殿や城門など、城内の全ての建物が払い下げられた。ほとんどが解体、移築されたが、大手門と三の門は元の場所に残されている。本丸跡の土地は、旧小諸藩士たちが払い下げを受け、現在もその子孫によって保有されている。
正眼院の山門(本丸黒門)
<正眼院の山門(本丸黒門)>
(2)懐古園の誕生
 明治13年(1880)本丸御殿跡に、旧藩士たちにより懐古神社が建立され、その周辺を懐古園と呼ぶようになった。明治20年(1887)地元名士による「懐古園無尽」が結成され維持管理が引き継がれていったが、大正12年(1923)には、旧小諸藩領60余町村からの賛助を得て「懐古園保存会」を結成。園内整備に合わせ、懐古神社社殿と三の門の大規模修繕が行われた。
小諸城本丸跡の懐古神社
<小諸城本丸跡の懐古神社>
小諸城三之門(重要文化財)正面に掲げられた「懐古園」扁額は徳川宗家16代当主・徳川家達の筆。
<小諸城三之門(重要文化財)正面に掲げられた「懐古園」扁額は徳川宗家16代当主・徳川家達の筆。>

3.懐古園の公園化

(1)本多静六の小諸公園設計案
 大正15(1926)年、小諸町は、日本の「公園の父」ともいわれた本多静六博士※1に、『小諸公園(懐古園)設計案』を依頼。この設計案を基に約6万坪の公園整備の実施を決定した。
※1本多静六(ほんだせいろく、1866-1952年)日本の林学者、造園家、株式投資家。日本の「公園の父」といわれ、東京・日比谷公園、北海道・大沼公園など、全国の多くの公園設計計画に携わる。平成25(2013)年、本多静六記念館が生誕地・埼玉県久喜市に設置された。
小諸公園設計図
<小諸公園設計図>
(2)本多静六の懐古園設計
 本多博士は「小諸町の如き由緒来歴に富んだ城址を公園として設計するには、城址並びに付近の名勝史跡天然記念物に対する歴史、伝説は勿論、地方民衆の要求、希望、人情、風俗、習慣、政治、経済、状態等に関する該博な知識と多年の経験とを有たなければ完全な設計案を建て難い」とし、小諸町民の案内や希望などによって、設計の大方針を樹立したと記している。そして、「小諸公園設計の根本方針は其独特な史跡名勝に富む珍らしい穴城の保存と、開潤雄大な眺望と幽邃、閑雅なる自然美を助長し、一方変化の多い壕と森とを利用して之に多少の人工美を加へ、以て一大風景美を現出せんとする」としている。
懐古園
 小諸公園設計案では、小諸城郭の空堀や丘陵などの地形や植生を活用し、植栽や風致林、天然植物園などを配置。さらに、児童遊園、大運動場などの設置が記載されている。
 さらに管理については、小諸町だけでなく民間の管理の必要性にも言及し「管理については青年団や学生等の手伝いによって行い、管理維持上においても民衆の手によって完成したものは、好成果を治め得るものであることを特筆するものである」として、その後の管理は、小諸町や小諸町観光協会、小諸城保存会が合同で実施した。
 また、小諸町は本多博士に動物園の設置を要望し、城内の籾蔵跡に大正15(1926)年動物園が開園した。長野県内では初、国内では5番目に古い歴史ある動物園となる。
懐古園

4.懐古園の公園整備

(1)設計後の小諸公園(懐古園)
 公園整備がすすみ、昭和6年(1931)には小諸公園の1日の入場者が3,000人を超え日もあった。 そして、昭和11年(1936)には年間入場者数が30万人を突破、全国の公園入場者数で10位となった。
(2)小諸公園拡張計画
 昭和12(1937)年、小諸町は再び本多静六博士に『小諸公園拡張計画』を依頼し策定する。本多博士は、「大正15年に公園の設計を行ったのであるが、爾来年を閲すること十有三年、その間、時勢は急速なる進歩を遂げ、一般世人の公園に対する見方もまた大に発達し、殊に運動競技界の躍進は、全く驚くべきものがあり、従来の如き小規模の不完全なる公園にては世人が最早や満足することが出来なくなったのである」と記している。
 計画では、本丸・二の丸・三の門を中心に城郭の現状を保存しながら、利用者の利便性を考え、回遊路の整備、休憩・慰安設備、公園管理事務所の設置なども提言している。
小諸公園拡張計画

5.現在の懐古園

(1)戦後の懐古園と都市計画決定
 戦後、昭和24年(1949)北谷の一部を埋め立て児童遊園地が設置され、園内の園路や休憩所としての四阿の整備などもこの頃に完成した。
 また、昭和29年(1954)小諸市が発足、昭和 31年(1956)都市計画決定により、都市公園「小諸公園(懐古園)」となる。
懐古園
(2)文化人の愛した懐古園
 懐古園は、島崎藤村の『千曲川のスケッチ』に描写されると、その後も若山牧水や種田山頭火、高濱虚子など多くの文化人に愛された。園内には、島崎藤村歌碑「千曲川旅情のうた」をはじめ、ゆかりのある文化人の歌碑や句碑などが建立されている。特に、藤村記念館や小山敬三美術館などの施設もあり、ゆかりの資料や展示を見ることができる。
懐古園
〈藤村記念館〉
 昭和33年(1958)、小諸藤村会により園内の紅葉が丘に「藤村記念館」を建設された。藤村記念館の設計は建築家・谷口吉郎。設計コンセプトは「城跡にマッチした高雅簡浄な木造建築」としている。建設の翌年、小諸市に移管されている。
藤村記念館
〈小山敬三美術館〉
 昭和50年(1975)、文化勲章を受章した洋画家・小山敬三により、小山敬三美術館が建設。設計は建築家・村野藤吾。その後、小諸市へ寄贈された。
小山敬三美術館
〈小山敬三記念館〉
 昭和4年(1929)神奈川県茅ヶ崎市の海岸近くに建てたアトリエ兼住居は、昭和62年(1987)小山敬三が89歳で亡くなるまで使われていたが、平成14年(2002)その一部を移築し、生前より使っていた調度品や未完成の作品などを展示している。
〈小諸義塾記念館〉
 明治29年(1896)私塾「小諸義塾」の本館校舎として建設された建物の寄贈を受け、平成6年(1994)小諸市が復元移築して、「小諸義塾」の資料などを展示している。小諸義塾は、明治26年(1893)小諸の青年らの熱意にこたえ、木村熊二が開校した私塾。塾では、島崎藤村をはじめ、三宅克己、丸山晩霞、鮫島晋らが教師を務め、内村鑑三、山路愛山、徳富蘇峰らを迎え講演会を開き、柳田國男、有島生馬、青木繁らも訪れている。
小諸義塾記念館
(3)名勝・小諸城址懐古園と周辺整備
 小諸城址懐古園は、「さくら名所100選」や「日本100名城」にも選定されるなど、多くの市民や観光客も来訪するようになり、城跡の公園としてだけでなく、小諸市の歴史文化の集積地ともなっている。
平成20年(2008)大手門(重要文化財)が保存修理され、江戸初期の姿に復原、また、その一帯が大手門公園として整備された。平成21年(2009)大手門公園には、鉄道で分断された三の門と大手門を繋ぐように、停車場ガーデンや芝生広場、せせらぎの丘などが完成。
令和元年(2019)には、小諸城址懐古園が「名勝」として小諸市文化財に指定された。
 旧北国街道小諸宿の歴史的な家並みの残る地区では、令和2年(2020)旧脇本陣が登録有形文化財となり、宿泊施設として活用がすすんでいる。また、令和3年(2021)、旧小諸本陣(重要文化財)の保存修理も始まり、名勝・小諸城址懐古園を中心とした歴史文化の観光資源ともなる整備計画が進められている。

【参考文献】
本多静六『小諸公園(懐古園)設計案』長野県北佐久郡小諸町役場 大正十五年 小諸市立図書館蔵
小諸町『小諸公園拡張計画』昭和十二年 小諸市立図書館蔵
小諸町公民館『小諸町の沿革と懐古園』昭和二十九年
小諸市教育委員会『小諸市誌 近・現代編』平成十五年
奈良文化財研究所 近世城跡の近現代― 平成28年度 遺跡整備・活用研究集会報告書―事例報告「懐古園の変遷について」小諸市教育委員会・山東丈洋 平成28年