日本画家・白鳥映雪日本画家・白鳥映雪

日本画家・白鳥映雪
 小諸市滝原地区出身の日本画家、白鳥映雪画伯〔大正元年(1912年)~平成19年(2007年)〕は、美人画の巨匠、伊東深水に師事し、後継者として日本画界を牽引してきた。 深水の指導のもとに制作された昭和25年作の「立秋」では、ビルの屋上で語らう時代をを反映した3人の女性像を抒情深く表現した。円熟期の平成4年から平成6年の間に制作された「羽衣」、「菊慈童」は、日本の伝統芸能の能楽と日本画が融合した幽玄な世界を描いた最高峰の日本画として名高い。  平成6年、「菊慈童」に対し、恩賜賞と日本芸術院賞を受賞し、平成9年に日本芸術院会員となる。翌平成10年には、日展顧問に就任。平成15年に脳梗塞で倒れ、利き腕の右手が使えない中、左手で絵を描き続け、「不屈の画家」と称された。

主な代表作

『立秋』 1950(昭和25) 第6回日展、特選、白寿賞
『立秋』 1950(昭和25) 第6回日展、特選、白寿賞

『立秋』 1950(昭和25)

昭和25年日展特選(白寿賞)受賞作品。画伯の師 伊東深水は24年小諸を去って鎌倉に画室を建て転居。白鳥画伯は単身鎌倉におもむき、師のもとで制作したのがこの作品。日本の復興を、夕暮れのビルの屋上から眺める三人の女性に託して描いている。明暗の対比のはっきりした画面構成で女性のスタイル、表情からも新生日本の息吹きが感じられる。画伯の代表作のひとつ。

『羽衣』 1992(平成4) 第24回日展
『羽衣』 1992(平成4) 第24回日展

『羽衣』 1992(平成4)

羽衣は天人が空を飛翔するための薄くて軽い衣である。
日本の他、中国、朝鮮にも古くから天女が空から舞い降りて、水浴している間に、漁夫に奪われた羽衣を返してもらったお礼に、舞いながら天に昇っていくという伝説、いわゆる『羽衣伝説』が残っているという。この作品では、悠遠に広がる朝焼けの中、きらめく天冠をかむり、能面に天真爛漫な笑みをたたえ、純白な衣の右裾を高々と揚げ舞っているところを描いている。能の幽玄な美を、絵画で表現した傑作。平成10年より一年間、首相官邸に飾られた。

『菊慈童』 1994(平成6) 第25回日展、日本芸術院賞、恩賜賞
『菊慈童』 1994(平成6) 第25回日展、日本芸術院賞、恩賜賞

『菊慈童』 1994(平成6)

古代中国、周の時代、時の穆王に仕えていた少年「慈童」はささいな過ちから遠くの山に流された。暫くしてこれを哀れんだ穆王は、慈童の長寿を願って仏の功徳を記した仏典を授けた。慈童が渓流のほとりで菊の葉にこの仏典の字句を書いて唱えたところ、渓流の水は不老不死の霊薬と化し、慈童は少年の姿のままで長く暮らしたという。能楽「菊慈童」もこの伝承に基づく。画伯はこの作品で、慈童が王の千秋万歳を祝い、舞っている様を穏やかな色調で描いている。平成6年、この作品で恩賜賞・日本芸術院賞を受賞した。永らく衆議院議長公邸に飾られていた。

略歴

白鳥映雪(Eisetsu Shiratori) 日本画家 日本芸術院会員 
1912(大正元) 長野県小諸市滝原に生まれる。生後間もなく母死去
1919(大正8) 7歳、大里小学校入学。この年父死去
1927(昭和2) 15歳、大里小学校卒業、農業のかたわら清水芳仙に彫刻を学ぶ
1932(昭和7) 20歳、丸山晩霞の紹介で伊東深水の画塾に入門
1933(昭和8) 21歳、東京蒲田の歯科医院の助手となる
1938(昭和13) 26歳、東京大森の歯科医院に移る、川端画学校、本郷絵画研究所
1940(昭和15) 28歳、従軍画家、上海から中国中・北部を取材
1943(昭和18) 31歳、第6回文展に「生家」初入選 
1945(昭和20) 33歳、戦火を避けて小諸の西原に疎開していた深水の身の回りの世話
1950(昭和25) 38歳「立秋」が第6回日展で特選となる
1957(昭和32) 45歳「ボンゴ」が第13回日展で2回目の特選となる
1965(昭和40) 53歳、日展会員となる
1974(昭和49) 62歳、小諸で個展開催、以後昭和58年まで毎年開催
1980(昭和55) 68歳、長女美映子死去、日展審査員
1986(昭和61) 74歳、日展出品の「寂照」が内閣総理大臣賞受賞
1992(平成4) 80歳、日展に「羽衣」を出品
1994(平成6) 日展出品の「菊慈童」に対し、恩賜賞・日本芸術院賞が授与される
1997(平成9) 日本芸術院会員となる。
1998(平成10) 10月、市立小諸高原美術館・白鳥映雪館開館、日展顧問に就任。
2007(平成19) 6月15日歿、享年95歳


市立小諸高原美術館・白鳥映雪館
市立小諸高原美術館・白鳥映雪館
白鳥映雪館 特別展示室内
白鳥映雪館 特別展示室内