「牛にひかれて善光寺参り」の伝説の舞台となった寺
布引観音・布引山釈尊寺

断崖絶壁の布引観音・観音堂

 小諸駅の西よりにある行基創建という天台宗の名刹。断崖絶壁にかかる観音堂(重文)に安置されているのが、牛に化身して、強欲な婆さまを長野善光寺(天台宗)に連れていったという布引観音様です。
 「牛にひかれて善光寺参り」とは布引山釈尊寺に伝わる縁起書にある幻牛伝説で、むかし信心を持たないおばあさんが、角に布をひっかけた牛(観音様)を追いかけ長野の善光寺までたどり着き、今までの欲張りで意地悪な心を悔い改めたと伝えられています。
 正式名称は、天台宗布引山釈尊寺。信濃三十三観音霊場の第29番札所にあたります。神亀元年(724)行基による開基と伝えられています。望月の牧と深いかかわりを持つ寺で、滋野氏(望月氏)とのつながりも古くからあったと推測されます。
 岩を削って数多くの伽藍(がらん)が安置され、江戸時代には「断崖の観音様」として絵図で紹介されるなど、街道を往来する人が足を延ばし賑わいました。
 布引観音の崖には200万年前から数十万年前まで存在した古小諸湖の堆積物による地層が露出して、長さ16mの「布岩(ぬのいわ)」があります。この布岩が「牛にひかれて善光寺参り」の仏話発祥の元になったのではないでしょうか。この岩の下の下の里を布下村といいます。
布引観音
布引観音
布引観音
 本堂、仁王門、護摩堂、客殿、大師堂、聖徳太子堂、愛染堂などが建てられており、西行法師(1118~1190)が3年修行した西行窟・爪で岩に経文を刻んだ爪彫り岩・芭蕉句・西行塚・開基行基菩薩・供養仏などが草むらの中に静かに佇んでいます。また、虚空蔵菩薩が堀ノ内城から移設されています。

 三年経て 折々さらす布引を 今日立ちそめて いつか来て見ん(西行)

 蝙蝠(こうもり)も 出よ浮世の 花に鳥 (芭蕉)

布引観音
布引観音
布引観音
布引観音
 天文17年(1548)年武田信玄が落雁寺入道、布下仁兵衛を攻めた時に落雁寺城・堀ノ内城・桝方城が兵火にかかって焼失し、釈尊寺の諸伽藍も灰燼(かいじん)に帰しました。弘治2年(1556)望月城主滋野左衛門佐が本堂を再建しましたが、享保8年(1723)野火の為再び炎上しました。寛延2年(1749)小諸城主2代牧野康周(やすちか)により本堂が再建されました。本堂屋根には天台宗の寺紋が掲げられています。
 大正15年(1926)~昭和11年(1936)まで布引電気鉄道が敷設され、参道の入り口には布引駅がありました。千曲川に架かっていた鉄橋の橋脚跡が今も残っています。

白山社社殿

 室町時代(1394~1573)中期以前の造立とされ、御牧ケ原白山地籍に祀られていたものを移築したと伝えられていて、昭和34年(1959)に修復されました。一間社(いっけんしゃ)、春日造、柿葺、大面とりの柱や破風、木連格子、破風の上の鬼板のひれ及び丸紋などは室町時代の特徴をよく表わしています。
県宝(昭和34年11月9日指定)

布引観音観音堂

布引観音
布引観音

布引観音
 岩窟の中にあり、拝殿部分は朱塗りの懸崖(けんがい)造りの舞台となっています。拝殿を支える8本の太柱は6尺8寸(20.6メートル)の高さがあります。天正20年(1592)に造営されたと考えられています(永正元年(1504)との説もあります)。
釈尊寺は幾度も戦火に遭っていますが、岩屋の奥深くにあった観音堂も宮殿(くうでん)も焼けずに残っています。
 本尊聖観世音(しょうかんぜおん)・左に十一面観音・右に馬頭観音・百体の黄金色に輝く仏像群と宮殿が納められています。拝殿の格天井も見上げてみてください。
布引観音

釈尊寺観音堂宮殿(くうでん)

布引観音
 宮殿は懸崖造りの観音堂の岩屋の中に安置され、兵火の難をまぬがれて鎌倉時代の正嘉2年(1258)建立のまま現在に至っています。
 秘仏の聖観音の厨子(ずし)として造営されたものですが現状は秘仏の聖観音は石窟内に納めて(本堂に保存、安置されているかもしれません)、厨子は空室のまま観音堂内に保存されています。
 岩屋内の湿気による、背面と側面の腐食のため、昭和26年(1951)に修理復元しました。正嘉2年の棟札(むなふだ)が残っていて、昭和26年の修理まで一度も手を加えられていない貴重なものです。
■ 釈尊寺観音堂宮殿の特徴

・入母屋造・板葺単層で桁行一間(108センチメートル)、梁間一間(59.4センチメートル)、高さ162センチメートルの和様建築の雛形のような規模。

・妻には梅鉢懸魚(うめばちげぎょ)がつけてある。梅鉢懸魚は、従来は絵巻物等によって鎌倉時代には存在したことが知られているだけであったが、この宮殿において当時の現物が発見されたので、これが日本唯一の鎌倉時代の遺物ということになる。

・軒は飛檐垂木(ひえんだるき)と地垂木で構成されており、両者ともに細かく組まれた、いわゆる繁垂木である。上部の飛檐垂木は先をこいて真反りの軽快な感じを表し、下部の地垂木は鼻増しをつけて重厚な感じを表して、上下調和した落ち着きがある。

・正面の欄間に2個、左右の欄間に1個ずつ付けた板蟇股は、快い肉付けをもった肩から、すっきりと締まった足もとへ流れる線に、平安朝風を帯びた鎌倉時代の様式をよく表している。

・幣軸の大面取り、金箔を押した板扉、これに付けた鍍金された出八双金具、長押金具等にも時代の特色が良く現れ、扉両わきの腰長押の上には盲連子窓が付けてある。

・地長押の下は三間に分けて3個の格狭間が付けてあるが、これにも鎌倉時代の様式が良く現れている。棟の鬼板は簡単であるが、小さく締まった足もとにもまた鎌倉風が良く表れている。

・外部は黒塗で、幣軸・連子窓・垂木小口は緑青、扉は金箔である。

地方的な未熟さがないことや、残っていた棟札(むなふだ)により建立年代が明確であることから、美術史上重要な建築物として、昭和11年(1936)9月18日に国宝に指定され、昭和24年(1949)5月30日国重要文化財に変更されました。